ある大学教員の体験から学ぶ、回復のヒント
希望は「身近な誰か」から生まれる。システム全体を見直すことで、人は変われる
本稿は、意思決定論・システム思考を専門とする山梨県立大学の松井亮太先生が、自らの危機体験を通じて「人はいかに絶望から立ち直ることができるのか」を探ったものです。手法としては、「オートエスノグラフィー(研究者が自身の体験を素材として分析する質的研究手法)」を採用しています。
松井先生は、コロナ感染をきっかけに妻が重篤な障害を負い、育児も仕事も続けられなくなったことで人生最大の危機に陥りました。自らの感染が家族に広がり、妻が心肺停止状態になったことで深い罪悪感と無力感に苦しみ、適応障害と診断されて半年以上、眠れず、何も楽しめず、思考も働かない日々が続きました。
そんな中で転機となったのが、同僚との偶然の出会いでした。その人物は事故により失明しながらも復職していた全盲の大学教員であり、その姿に触れたとき、「自分にもまだできることがあるのではないか」という希望が生まれ、そこから一気に回復が進んだのです。
この急速な回復について、松井先生は自身の専門である「システム思考」の枠組みを使って説明しています。
システム思考とは?
システム思考は、「物事を“全体のつながり”で捉える思考法」です。ある問題を個別の要素で見るのではなく、それらがどのようにつながり合い、影響し合っているのか―その「構造」を重視します。
特に、システム思考にはこのような特徴があります。
・要素同士の因果関係を“ループ”としてとらえる
たとえば、「不安→眠れない→思考力低下→不安がさらに強まる」といった、悪循環(負の自己強化ループ)が起きている場合、それを断ち切る“きっかけ”が必要になります。
・小さな変化が全体を大きく動かす「レバレッジポイント」を探す
すべての問題を一つずつ解決しなくても、最も影響力のある“てこの支点”を見つけることで、全体が好転し始めるという考え方です。
松井先生は、絶望の中で心身すべてが悪循環に陥っていた状態を「負のフィードバックループ」として捉えています。そして、全盲の同僚との出会いが「希望の根拠」となり、そこから行動意欲・思考力・感情の回復が自己強化的に回り出したことを、「正のフィードバックループ」として説明しています。
この考え方は、「一部を変えれば全体が変わる」という、システム思考ならではの視点です。
松井先生は、「回復とは時間の問題ではなく、“構造”の問題だ」と強調します。どれだけ休養しても、悪循環の構造そのものが変わらなければ、人は前に進めません。逆に言えば、適切なレバレッジポイントを見つけて構造を変えれば、驚くほど早く回復することもあるのです。
また、「レジリエンス(困難から立ち直る力)」は本人の中に既に備わっていたものであり、それがうまく機能できない“構造的な妨げ”があったと松井先生は指摘します。つまり、レジリエンスが「足りない」のではなく、「働けない状態」にあったにすぎないという視点は、実務や支援のあり方にも新しい示唆を与えます。
実務に活かせる3つのポイント
論文から実務に活かせる3つのポイントをご紹介します。
・希望は「リアルな存在」から生まれる
自分に似た立場の人の姿は、書籍や抽象的なデータよりも圧倒的に強く心を動かします。社内での体験共有やピア・メンタリング(似た境遇の社員同士の支え合い)が、絶望からの再起に大きく貢献します。
・「本人の問題」ではなく「構造の問題」ととらえる
社員の不調を「性格」や「能力」のせいにするのではなく、職場の仕組みや周囲の関係性など、システム全体を見直す発想が有効です。ちょっとした環境の調整が、大きな変化を生むことがあります。
・回復は時間ではなくきっかけが左右する
どれだけ時間をかけても変化がないこともあります。だからこそ、偶発的な「出会い」や「語りの機会」「環境の小さなスイッチ」が本人の再起を一気に進めることがあります。そうした接点づくりを意識的に設計することが、実務上も有効な支援になります。
松井先生の体験は、「心の力」だけではなく、「環境」と「出会い」が持つ大きな影響力を物語っています。組織や周囲の支援が、本人の中にあるレジリエンスを再起動させる「鍵」となり得るのです。レジリエンスを「個人の資質」とせず、「構造と出会い」の中で引き出す発想は、現場の支援者やマネジャーにとっても強い実務的示唆となるでしょう。
著者の方へ:本記事は中川功一監修のもと、学術知見の社会還元を目的として掲載しております。内容に関する修正・削除等のご要望がございましたら、お手数ですがinfo@ronbun.newsまでご連絡ください
