陽子線と重粒子線という2つの技術の並存
一般に新しい技術が開発されると、より優れた技術が他を駆逐し、一つの標準にまとまると考えられがちです。しかし、日本における「粒子線治療(陽子線・重粒子線)」の事例では、競合する二つの技術が同じがん治療を対象としながら、互いを排除せず共に普及するという独自のプロセスを辿っています。
こうしたことは決して珍しいことではありません。合成繊維が生まれたあとも天然繊維の需要は残っていますし、新しいコンピュータ言語が生まれても古いコンピュータ言語は依然として使われ続けます。
複数の技術が同時に開発が進み、それぞれがすみ分けて両立する。どのような条件があれば、それが成立するのか。東京都立大学の田代昌彦先生は、2つの技術がそれぞれに十分なだけのステークホルダーの巻き込みに成功したことと、それぞれの技術が必要コストと性能の違いから住み分けが可能であったことが有効であったことを見出しました。
陽子線と重粒子線:それぞれの科学的特性と役割
粒子線治療とは、水素や炭素の原子を加速器で光速近くまで加速し、病巣に当てる最新の治療法です。従来のX線と異なり、がん病巣でピタッと止まってエネルギーを放出する性質があるため、ピンポイントでの照射が可能です。粒子線治療には、陽子線と重粒子線の2種類があります。
陽子線治療
水素の原子核を用います。米国が先行して開発しており、装置が比較的コンパクトで、建設費(50〜90億円)を抑えられるといった導入のしやすさが特徴です。
重粒子線治療
炭素の原子核を用います。細胞の殺傷能力がX線の約3倍と極めて強力で、放射線が効きにくい性質を持つがん(放射線抵抗性)や、酸素不足の状態でも増殖するがん(低酸素要求性)に対しても高い効果を発揮します。日本が世界に先駆けて技術を確立しましたが、施設は巨大で、建設費(100〜150億円)も高額になります。
この両者は、普及しやすさと性能という異なる価値を提供することで、役割を分かつ棲み分けを実現していました。
産官学を巻き込む「ライバル関係」の力学
この普及の背景には、異なる組織による競い合いがありました。重粒子線は科学技術庁が主導し、米国が開発を断念した後の「最後の砦」として日本の研究者や企業が結束して技術を確立しました。一方、陽子線は厚生省が導入を主導しました。この省庁間の切磋琢磨や、国の医療輸出戦略といった後押しが、結果として両方の技術を日本の標準治療(保険適用)へと押し上げたのです。
競合を排除しない「棲み分け」 ビジネスへの戦略的示唆
本論文は、2つのことを私たちに伝えます。技術のスペック(性能)と必要経費の違いが住み分けを可能とする第一条件であり、それぞれの技術が異なる社会的ネットワークを巻き込み、十分な資源の獲得を行ったことで、両方とも発展できたのだということです。
本研究の知見は、たとえば市場においてある技術が優勢であると見込まれる状況においても、別種の技術を存続させるための戦略に活かせます。
たとえば現代ではあらゆるサービスがロボットで実現されようとしています。そんな中でも、コストと性能で明確な違いをつくることができ、かつ、その別の技術に対しても十分な支援ネットワークの広がりを作ることができれば、その技術で風穴を明けることができるわけです。
たとえば、人による丁寧なケア。より高額だけどもAIではできない支援が出来るならば、高額でも生き残る可能性がある。その人によるケアの大切さが十分に人々に認知され、支援を得ることができれば、それは生き残っていくことが出来る可能性があるわけです。
改めて、重要なポイントを抽出しておきましょう。
正当性の構築による資源動員
新規技術が生き残るには、単に高性能なだけでなく、なぜそれが必要かという社会的な納得感(正当性)が重要です。重粒子線のように、世界初の技術を日本が守るという独自の存在意義を定義することで、国や企業からの強力な資金・人材支援を引き出すことが可能になります。
多様なプレイヤーを巻き込むエコシステムの構築
イノベーションは技術開発だけでは完結しません。行政、企業、政治家など、立場の異なる協力者をネットワークに組み込むことが、保険適用や海外輸出といった高い壁を突破する鍵となります。
消耗戦を避ける棲み分けの市場戦略
競合を市場から追い出すのではなく、各々の特性を活かして共存する棲み分けは、成熟した市場で有効です。陽子線が普及型、重粒子線が高度治療型へと分かれたように、自社が最も輝く場所(セグメント)を再定義することで、持続的な成長が可能になります。
これからのリーダーに求められるのは、単なる技術の研鑽ではありません。社会的なネットワークを構築し、競争を共創へと転換させるデザイン力こそが、持続的な成長の鍵となります。
記事原案 印部有紀
