人が辞めにくい日本で、人材投資が低い逆説
寿司屋の弟子は3年で一人前にできるのに、実際には10年かけて育てられる。この「ゆっくり」は職人の美学ではなく、経済合理性で説明できるといいます。人材育成の常識を問い直す論文を紹介します。
なぜ人をゆっくり育てるのでしょうか。早く一人前にすると、教育に費やした時間や食材のコストを回収する前に、高い賃金を払うか、独立されて競争相手を増やすことになるからです。経済学の理論モデルでも、企業に最適な育成期間は前提しだいで11年から21年になると計算されています。では、企業の人材育成は何によって促され、何によって妨げられるのでしょうか。
早稲田大学の大湾秀雄先生は、論文「人的資本理論と企業の生産性決定メカニズム―経済学研究から分かったこと」で、この問いをめぐる経済学の実証研究を幅広く概観しました。労働経済学の研究成果を整理して経営への含意を引き出す、レビュー(概観)型の招待論文です。
そのポイントとなるのが 「労働市場の摩擦」、つまり転職のしにくさです。従業員が辞めにくいほど企業は育成コストを回収しやすく、安心して人に投資できる。こうした考えが広く流布していると大湾先生は指摘します。実際、ベルギーの全株式会社13万5千社超を対象にした研究では、研修が生産性を押し上げる効果は賃金を押し上げる効果を大きく上回り、投資リターンの半分以上を従業員ではなく企業側が得ていました。
それなら、年功賃金などの制度もあって摩擦が大きいとみられる日本は、人材育成大国のはずです。ところが論文中の推計では、日本企業の能力開発費は給与総額比でおおむね1.5〜2.0%と、2〜4%とみられる欧米主要国より低い水準です。2022年度に通常業務を離れた研修(Off-JT)の機会がなかった人や、機会はあっても受けなかった人は、雇用者全体の80.8%に上ります。
この矛盾を解消する手がかりは、 人的資本理論の創始者でノーベル経済学賞も受賞した、シカゴ大学のゲーリー・ベッカー先生の理論にあります。競争的な労働市場では、高い育成投資を約束する企業ほど優秀な人材を引きつけるため、人材獲得競争を通じて投資が促進されるという、もう一つのロジックです。しかも摩擦頼みの育成は、寿司屋の例のように投資期間を引き延ばし、社会全体でみれば過小になります。ジョブ型雇用(職務限定の雇用)への移行や人的資本情報の開示で労働市場が競争的になり、育成の約束が契約になくとも信頼される「関係的契約」として共有されるなら、企業の投資は囲い込みに基づく水準より高い、効率的な水準に近づくと大湾先生は論じています。この見通しは理論から導かれるもので、日本での実証の蓄積はこれからです。
育成を「社外への公約」に変え、管理職投資で差をつける
最初に見直したいポイントは、自社の育成が「寿司屋方式」になっていないか、ということです。辞めない前提で長い下積みを課し、ゆっくり育てる仕組みは、摩擦が大きい時代には合理的でした。しかし転職支援サービスやジョブ型雇用の広がりで労働市場が競争的になるほど、回収を優先した囲い込み型の育成は、かえって人材流出の引き金になりかねません。
その次に踏み出すべきステップは、 育成を「隠れた投資」から「見える約束」に変えることです。競争的な市場では、高い育成投資を約束する企業に人材が集まります。研修体系や育成方針を社内外に開示し、実行を積み重ねて信頼を得る。人的資本情報開示を法令や上場基準への義務対応ではなく、採用力と定着を高める投資と捉え直す視点です。その際、約束と実態がずれれば信頼はかえって損なわれるため、開示は実行できている内容から始めるのが現実的でしょう。
投資をどこに厚く配分するかにも、この論文はヒントを与えてくれます。紹介されている研究群によると、優秀な管理職とそうでない管理職の間には、配下のチームの短期的な生産性で10〜20%程度の差があるにもかかわらず、その違いは給料にはあまり反映されていません。良い上司を育成し選抜する仕組みづくりは、企業業績の改善に極めて重要だと大湾先生は述べています。育成予算の優先順位を考えるうえで、管理職層は有力な投資先の候補になります。
人材の流動化は育成の危機と語られがちですが、この論文の示唆は逆です。囲い込みで守る育成から、選ばれるための育成へ。自社の人材投資を転換する際の、確かな出発点になる一本です。
記事原案 東莉子
